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ヘビーコメント 2

様々な方から頂いた感想と、DMなどでのやりとりです。このお二方の感想は、独特の視点から書かれたとてもストレートな文章で感動してしまいました。『乙姫二万年』 は、なかなか言葉にしにくい作品なので、こういう感想はとてもありがたいのです。
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映画 『宇宙人の画家』 監督、保谷聖耀さんとのやりとり

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『宇宙人の画家』という素晴らしい作品を監督した、保谷聖耀さんとご縁ができてやりとりさせて頂きました。そもそもは『宇宙人の画家』をプロデュースしたカナザワ映画祭 ←(クリックで作品告知ページに移動)からの「作品の感想を書いて欲しい」との依頼が始まりでした。『宇宙人の画家』とても面白い作品で、早速Twiterで長編感想文を書いたのです。その後DMでお互いの手塚治虫からの影響など自分の根っこの話をやりとりして、僕の『乙姫二万年』も観て頂きました。お互い嗜好と思考が重なるようで、保谷さんから丁寧な感想を頂きました。こういう真正面からの感想ってなかなか帰ってこないものなのです。という事で、ここに転載させて頂く事にしました。

* 最後に僕が書いた『宇宙人の画家』の長編感想ツイートも掲載いたします。
  予告編もどうぞ御覧ください。 https://youtu.be/0ClQrHRuAdA

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こんにちは。
保谷です。

『乙姫二万年』拝見しました。
(また、勝手ながら概要欄のリンクから『人喰山』も見てしまいました)
少し前に見ていたのですが、感想がまとまるのに時間がかかってしまい大変遅くなりごめんなさい。2回拝見しました。
とはいえまとまっていないと思いますし、勝手に解釈している部分も多く失礼な感想になってしまうこと、先にお詫び申し上げます。

『乙姫二万年』大変面白かったです。
のっけから自分の話で恐縮ですが、私はドールハウスやジオラマのような箱庭的な世界が好きで、小中の時には紙でお城の模型を作ったりプラモデルを作ったりしていたのですが、『乙姫二万年』にも、そうしたミクロなスケールで成立している世界の魅力を感じました。

アニメでありつつも、段ボールで作ったようなアパートの感じや、宇宙人や幽霊船の模型感、街の人々の粘土細工のような造形が妙な物質感を出しており、映画全体が手で触れるようなざらざらした感じというか、作り物のドールハウスの中を覗き込んでいるような感覚がありました。

女の入っている牛乳瓶とか、滴る汗の描写とか、河童鍋などの実写とアニメの混合とかで、ある種臭みのあるような生々しさがそれを後押ししていました。河童鍋すごく美味しそうでした。

あとところどころの効果音のチープさというか、花火の音とか芯の抜けているような軽さがあり、絶妙にリアルではない音も作り物の世界の感じを引き立てていると思いました。
(たまに無音の状態がしばらく続くのが好きでした、無音で絵だけがゆっくり動く時の時間感覚素晴らしかったです。映画館で完全な無音を体感したくなりましたね)

話は変わるのですが、
アパートという家がこの映画の中心にある気がしており、アパートの内で起こることが外に侵略していく感じ、その逆に外で起こることが内に侵入してくる感じがあり、アパートという建物の壁が細胞膜のように変化しながら色々なものを媒介しているのが興味深かったです。
アパートは過度な妄想世界の領域というか、絵描きの主人公の想像力そのものなのではないかと感じました。(そう考えるとアパートの住人たちの存在って異様というか、主人公の夢に付き合っている人という感じなんですかね。でもあの絶妙に仲良い感じ好きでしたし、ああいう関係性の人々って現実にもいる気がします)

全体通して、メインの対象物の奥にある背景がぬるーっと動くのも新鮮でした。ずっと目まぐるしく動き回る夢の世界でした。一番印象的だったのは、管理人のおじさんが「いい風が吹くねー」と言って窓の外を見ている時の、横にスライドしていく街と青空の爽快感です。

個人的に印象に残っているのは、竜宮城のある地下の湖のシーンで、
あのように地底深くにがぽっと空いた空間に湖があって、その上に街があって人が暮らしているという風景を私自身小さい頃よく思い描いていたというのもあるのですが、
すごく懐かしさを感じる光景でした。湖の青さと陸の赤さのコントラストが美しかったです。

懐かしさというと、ミクロで作り物の世界はそのままでノスタルジックな感覚を喚起する気がしており、
この映画全体通してそうした雰囲気が流れているのもありますが、核となる設定、二万年後という果てしない未来から来たる女の存在がそれを補強しているとも思いました。
二万年後から見たら勿論現在は大昔になるわけですが、
時を隔ててやって来た女が主人公と交わって子供を作る…その後世界は混迷を極め、地底の竜宮城にある古ぼけた映画館のスクリーン上で二万年後の未来は破壊されエンタメのコンピューターが破壊され、男の妄想世界も終わり女も消えてしまって最後には何が生まれるとも分からない卵だけが今ここに残されるという結末は、大変美しかったです。
米粒のような無数の箱庭の住人たちが空に昇っていく様(ロングショットの画どれも好きでしたがそのカットは一番壮観でした)を見ながら、
陳腐な言い方になってしまいますがノスタルジーという夢の終焉と新たな希望を感じました。

原発や戦争という「夢」によって自滅し荒野と化しつつもなんだかんだ「エンタメ」(しかも人類のためではなく宇宙人のための)によって延命している未来が徹底的に破壊されるのは妙な爽快感がありましたね…
女はそんな未来から来た人類の想像力の残滓というか、最後の希望のようにも思えました。

無くなった未来の女との思い出の結晶でありつつもこれからの別の未来を秘めているあの卵からは何が生まれるのか、考えてみたいです。

長くなってしまい申し訳ありません。大変面白く、アイデアをいただく部分も多く刺激的な作品でした。
今後の作品も楽しみにしております。
保谷聖耀




丁寧なご感想、本当にありがとうございます。とても嬉しいです。
『乙姫二万年』ああいう作品なもので、きちんとした感想をもらう事はほとんどないのです。もしかしたら正面からの感想は保谷さんが初めてかもしれません。カナザワ映画祭の小野寺さんが「作風に通じるものがある」と、『宇宙人の画家』の感想を僕に求めてきたのも同じ事情かもしれません。『乙姫』も『宇宙人の画家』もなかなか言葉になりにくいタイプの作品でしょうから。
興味おありなら『乙姫』のHPがありますので、こちらを読んでもらったら面白いかと思います。
では、またどこかでお会いしましょう。『宇宙人の画家』興行の成功をお祈りしています。
にいや




こちらこそありがとうございます。
たしかに、そういう意味でも恐縮ながら『乙姫二万年』と『宇宙人の画家』は似ているのかもしれません。映画の見せ場というか、魅力の部分があえて言葉を拒絶するような表現を選んでいるというんでしょうか…

HP読みました。
往復書簡の「幼児期の無時間性」の部分、大変興味深かったです。
私自身、それに近い部分があるといいますか…映画を作っている時(主に撮影と編集ですが)、なんとなく自分のおおもとにある大昔の時間感覚に戻っている様な感覚があります。
また、そういう状態に入っている時が一番映画を作っていて楽しい瞬間です。

あと、舞台となったアパートのエピソード面白かったです。やはりただのアパートではなかったのですね。映画内であのような異質な動きを見せるのにも合点が言った気がいたしました。

『うなぎのジョニー』もありがとうございます!
拝見します。

こちらこそ、お会いできたら大変嬉しく思います。
『宇宙人の画家』の方も、
宣伝等、頑張っていきます。
またよろしくお願い致します。
保谷聖耀



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*ここから保谷さんの作品『宇宙人の画家』への、僕の感想連続ツイートです。
 もしお近くで『宇宙人の画家』上映されることがあったら、是非是非御覧ください。


#宇宙人の画家 とっても面白かった。ぜひ小中高校生に観てもらいたい。カルト映画扱いされそうな不思議な作品だけど。これは思春期の心に刺さって一生抜けなくなる、巨大な黄金の棘だ。学校に行きたくない貴方、いじめに悩んでる貴方、何もかもぶち壊してしまいたい貴方のための映画だ。

この映画の面白さを説明しようとしても「カルト宗教に支配された町に潜入した工作員と教祖一味の戦いに、旧日本軍の秘密兵器「ダルマ光」の争奪戦がからみ、さらにエリート生徒会長に支配された中学校での、いじめられっ子達のレジスタンスが引き金となり、全世界の破壊と浄化が始まる……」なんて

粗筋を紹介したら、ますます意味がわからなくなりそうだ。映像的にもカラー、モノクロ、スチルムービー、マンガやアニメーションまで入り乱れて何でもありの満漢全席。ポスターやチラシには金色の巨大仏像にジェット戦闘機。明らかに観客を選びそうな作品に見えるけど、そんな事はない。

#宇宙人の画家 ってタイトル、手塚治虫の『どおべるまん』かと思った。宇宙人から命令を受け、滅びゆく星の歴史を記録させられる絵描きの話。悲しくてユーモラスで恐ろしい傑作だ。でもこの映画の根本は僕が小中学生の頃大好きだった、やはり手塚治作品『三つ目がとおる』じゃないか。

古代人の超能力を持つ写楽保介は「科学文明によって自滅しそうな全人類を、脳味噌をトコロテンにする機械で「バカ」にして破滅から救う」と語る。まるで子供の落書きのような発想だ。#宇宙人の画家 でいじめられっ子のホウスケが描くマンガ『虚無ダルマ』も子供の落書きそのもので

いじめっ子たちからバカにされまくる。しかしクライマックス、その子供の落書きが顕現し世界を覆い尽くして行く壮絶さはどうだ。前半、見事な技術で描かれるカルト教団との戦い。中盤、美しいモノクロで描かれる、切ない学園生活。それらをジャンピングボードにして、作者が仕掛けたクライマックスの

荒技「脳味噌トコロテンアニメ」の衝撃。ここは是非大スクリーンで観て頂きたい。それは、前半中盤の周到な演出、撮照、音響、役者さん達の好演があってこそのトドメの凶器攻撃だ。しかし本作の根は『三つ目』だけではない。作者が意識したかどうかは知らないが、やはり僕が小中学生の頃に

熱心に見ていたNHK「少年ドラマシリーズ」の『なぞの転校生』などのジュブナイルSFの世界。それらはいじめ、ファシズム、優生思想の戯画化だった。筒井康隆の『時をかける少女』など未だに根強い人気を持つが、精神的にも肉体的にも最も不安定で、何も信じられず、全てを疑い、

何もかもぶち壊してしまいたい14歳前後のコンプレックスと、その裏返しのエリート意識を最も直截に物語化できたのが一連の学園SFだったのだ。#宇宙人の画家 はまさにそれらの正当な後継者であり、最もピュアな形で映像化に成功した作品だと思う。低予算の自主制作で、子役の人たちも

いわゆる上手い演技ではないが、心情をそのまま棒読みさせる演技指導がSF学園ジュブナイルの戯画的世界に見事にはまり、逆に夫々の個性を光らせる結果になっている。ホウスケのマンガを糾弾するエンドウさんのニヤついた口調には感服した(たぶん先生のリアクションに本当に笑ってる)。

サチとナオミの長セリフの場面も、感情を込めた上手い演技だったら説明(調)台詞が浮いてしまうだろう。また、モノクロの画面を活かした風景の美しさも特筆ものだ。#宇宙人の画家 の美点の一つは、風や水や空の表情、小さな動物たちの姿が愛情を込めて写し込まれている事だ。暗い藪を

舞う小さな蝶や、水面に覗くサンショウウオの可愛らしさ。小鳥たちの表情、風にそよぐ草、飛行機雲。なにより冒頭の雲間に浮かぶ月の美しさと禍々しさ。一見、本筋と無関係な自然物のインサートカットこそ、単調な時間を淀ませジャンプさせ「時間を操る」ものなのだ。通常の低予算映画では

無視されがちな自然物のインサートカットがこれほど豊富に使われている事は、商業映画でも珍しい(ライブラリ映像からの借り出しもあるのだろうか?)。また、学園パートのクライマックスでのスチル(静止画)ムービー的演出。これはその後に控えている、アニメパートへスムーズにつなぐ

ための呼び水だと思うのだが。スチル構成によってドラマを圧縮し、撮影の効率化にも成功している。☓☓☓☓の末路もCGや特撮で表現するだけの時間的、予算的な余裕もなかったのだろうが、スチル構成の効果により夢を見ているような、超現実的なイメージが生まれていると思う。

前半のカルト教団との戦いは、なんと言っても役者さん達の演技が見ものだ。『コワすぎ』の大迫茂生とシソンヌじろうの、イチロー・ジロー兄弟の掛け合いの素晴らしさ。どこまでもピュアに乱暴でバカな二人の演技が、小狡い弁護士や謎めいたマルヤマの存在を浮き立たせる。また稲生平太郎演ずる

謎の老人も、カンペを斜めに睨む説明セリフが、ますます得体の知れないキャラを印象づける。演技のできるプロと、棒読み素人キャストの配置が絶妙なのだ。アクションシーンにしても、ワタナベが路地を駆け抜けながら子どもたちと銃撃戦を展開する場面。子どもたちは演技をしているわけ

ではなく、モデルガンを渡されてニヤついているだけだ。しかし、それがカルト教団に洗脳された子どもたちに見えてくるから面白い。しかしそのためにはワタナベが本気で走りながら銃撃をしていなければならないわけで、ここでも場面の設定と、プロと素人の役者の配置が効果を上げている。

なんだか褒めてばっかりだが、低予算の自主映画でこれほど技法やキャストのさじ加減が絶妙な作品なんてまず無いだろう。#宇宙人の画家 という作品が成功しているとすれば、作者の力量は当然の事として、この現場のセッティングの見事さ、見切りの良さが第一の理由だと思う。

最後に一番気に入った台詞。大迫茂生演ずるイチローの「俺も死ぬかもな。でもよ、なんだかこの時のために生きてきた……って気がするじゃねえか」こんなベタな台詞がベタベタに語られて、それを愛おしく感じてしまう不思議。最初に「観客を選びそうな作品に見えるけど、そんな事はない」と

書いたけど。#宇宙人の画家 という作品は、思春期の心に突き刺さる『三つ目がとおる』や『少年ドラマシリーズ』であり、「この時のために生きてきた」なんてベタな台詞が平然と語られてしまう、真っ正直で真っ当な映画なのだ。それは幼稚な理想論と破壊衝動を臆せず吐き出す事で、自分が自分として

立ち上がるための通過儀礼映画とも言えるのではないか。そういえば、映画のキーマン、マルヤマは『地球に落ちてきた男』デヴィッド・ボウイを想起させる。やはり中学生の頃、学校の前の電柱に隣町の映画館のオールナイト上映のポスターが貼ってあって、それが『地球に落ちてきた男』だった。

なんだかエロい格好した妙な男が(田舎の中学生はデヴィッド・ボウイなんか知らない)緊縛されてるようなポスターで「これはポルノか?」と思ったが、数年後に大阪の名画座でやっと見ることが出来たのだ。変な話で何がなんだか分からなかったが、冒頭川の水を掬って飲むボウイと、

最後、山積みになったテレビを見るボウイの姿は胸に刺さって未だに忘れられない。#宇宙人の画家 は、是非とも若い方々に観てもらいたいし、かつて『三つ目がとおる』や『少年ドラマシリーズ』に熱中した世代にも観てもらいたい。今どき珍しい、真っ直ぐな真っ当な、稀有な作品だと思う。 (終)

 連続ツイートでは書き損ねてましたが。学園でのクライマックス、☓☓☓☓を窓から☓☓☓☓☓場面で、ヒロインのサチがちらっと笑ってるのが凄く好きです。あれも撮影現場のシチュエーションのバカバカしさに思わず笑みがこぼれたんだろうと思うんですが、彼女の素のほがらかさ(それは無邪気な残酷さとも見えるのですが)が感じられて、とても魅力的な場面でした。

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横浜SANさんの映画感想ブログより ← (クリックで横浜SANのブログへ移動)

*横浜SANさんは、ご自身のブログで膨大な量の映画(ピンク映画中心)の記事を書いておられます。
 「ありがとう浜村淳です」をお手本に、物語やディテールを手がかりに映画を語りまくるのです。
 なるほど、こういう形の感想というか、批評もあるのだなと感服しました。
 以下の記事は、横浜SANさんにお願いして掲載させて頂いたものです。
 元記事はこちら→ 『乙姫二万年


*さらに、エログロ怪奇紙芝居アニメ『灰土警部の事件簿 人喰山』の感想も書いてくださいました。


*ついでに、にいやが昔々友人と一緒に作った8ミリ映画『酒乱刑事』も。

*井川耕一郎監督作品『色道四十八手 たからぶね』の感想も書いてくださっています。

 (注)『乙姫二万年』未見の方へ。
  ブログ記事の後、横浜SANさんとのやりとりでも書いていますが。
  横浜SANさんは
映画に描かれていない事象を幻視する方です。
  文章を読んで「この場面を見てみたい!」と思われても、
  そういう場面は無かったりしますのでお気をつけください。


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にいやなおゆき「乙姫二万年」

ボロアパートに住む僕の部屋にある日突然現れた、牛乳瓶に入った二万年後の乙姫様。僕は彼女と同棲し始めて卵が産まれ、一緒に観に行った映画館で卵は怪獣の光線を浴びて孵化し、バケモノに変身した。アニメでも実写でも特撮でもない、夢に出るほど美しい2.5次元映画。

にいや監督がアニメと実写と模型の合成による美しすぎる造形で作り出した世界観は、観る者に自分だけの物語を紡がせるが、これは「夢」でしかないし、大いなる「夢」である。だから、本編は実際に観てみなければ、私が何を書いているかもさっぱり分からないと思うw

この映画で最大の見ものは風景である。人物ではない、だから私はこの作品をアニメとは呼ばない。実写とも呼ばない。紙芝居だけど奥行きがあり、人形劇だけど物語をつけた、いつか自分の脳内に浮かんだであろう、いや、この先いつか、脳内に浮かぶであろう儚い夢の続き。

劇中に登場する、主人公の青年が乙姫様とデートする時空を超えた映画館「名画座龍宮城」も、そこで上映されてる怪獣映画「ガスラvsギリゴン」も、写実的に絵で描いた映画内映画。作中にすっぽり収まったミニチュアな映画って、幻想的でとっても愛らしい(*'▽')

私がこの映画で観たのは「幻視」だと思う。よく「幻覚」という言葉を使うが、五感の中でも例えば「幻聴」とは耳障りの悪い、耳鳴りのような騒音を想像するのに対し「幻視」という言葉には夢を見ているような、この世のものでないお伽話のようなフワフワした世界を想像する、その映像化だと思う。

ストーリーを追って観る映画ではない。本来、劇場の大スクリーンで暗闇の中で観て、幸せな幻視をうつらうつらと感じ取り、気が付けば映画は終わっていた。そんな感じでちょうどいい。だから、どこかの映画館で観てみたい。現実ではないどこかへ、連れて行って欲しい。

にいや監督は、井川耕一郎監督「たからぶね」で、ラストの印象的な特殊造型?を担当され、それは海に向かって登場人物が船を出す、生の世界から死の世界へと旅立つような「みんな仲良く、いつまでも」だった。この「乙姫二万年」も現在と二万年後の二つの世界の交信を感じる。

井川監督は本作の評論で「生者の世界に死者が戻って来る」と書かれており、それは多分に渡辺護監督の諸傑作において描かれた「死者はまだこの世にいるんだよ」というメッセージの続きだと思う。井川監督の寄せたメッセージを読むと、改めて持つ意味を強く感じるのです。

私が「幻視」と表現する意図は、必ずしも「生者の世界」と「死者が戻って来る」ことだけを意味するものではないが、此岸と彼岸を置いて、その間を行き来することが人間が見る夢の本質なのだ、と断言できる。だから人は夢を見て死んでしまった大切な人に会うことができる。

現実に存在する人間を水彩画、風景を実写、そして人間ではないけどどうしても人間にみえてしまうようなスピリチュアルを感じる物体を模型で表現し組み合わせた。それが互いに画の中にビシッとハマっている。私のイメージとしては、演出は紙芝居とか人形劇の方が近い。

子供の頃、ドリフの孫悟空を人形劇で観て、アニメより作り物の人物に霊魂を感じた。日常の風景の中で、何気なく眺めている玄関や壁に、人の気配を感じることがある。それは自分が見ることによって初めて作り出されるもので、予め存在していたモノではない。という捉え方。

例えて言うなら、夢野久作の原作を実写化した松本俊夫「ドグラマグラ」のようなイメージだろうか?主人公の青年がボロアパートの中で体験する、いや、ひょっとしたら夢の中で疑似体験しているだけかも知れない世界は、どこか精神病患者が見る白日夢のようにも感じるのだ。

これは実写化ではない。アニメも模型も混じっていて、文字通り「カオス」である。乙姫が何しに時を超えてやって来たかも、ボロアパートに住む住人たちの素性も彼らの特異な生活ぶりもそれによって引き起こされる数々の奇跡も、全て脈絡がある様でない、映像のリレー。

主人公の住むアパートの鈴木さん親子、ヤクザの山田さん、管理人の小川さんは、アニメで人間のように描かれるが人間ではない。逆にアパートの建物とか映画館とかモアイ像とか、明らかにオブジェでしかなかった物体がどんどん目や口を持った生き物に見えて来る恐ろしさ。

私は、小学生の頃に良く見た夢を思い出す。家の近くのバス通りの、バス停のあるはずの無い場所に路線バスが突然停まって、運転手が大急ぎで下りて来て、車体の下を覗き込むと人間の死体があり、大勢の人が騒ぎ出す。このフラッシュバックするような夢を私は百回は見た。

もう一つ、私は高校生の頃、深夜に受験勉強して朝方になるとジョギングして近くのスーパーの前の自販機で缶コーヒーを飲んで、家に帰ると玄関に、確かに誰かいる。でも良く見ると、自転車のハンドルの先だった。このフラッシュバックも、ジョギングをする度にあった。

私が小学生の頃に見た、トラックの車体の下に死体騒動の夢も、高校生の時に見た、朝方のジョギング帰りの人の気配も、間違いなく「幻視」であり、フロイト心理学では何かのトラウマに位置づけられるはずなのだが、それよりも夢やロマンを持って語るのなら、それ自体が画。

もし私に絵や映画の才能があったら、あの日に見た幻視を再現してみたい!となったのだろうが、あいにく私にはそういう才能は無かった。ところが、この作品は幻視の再生のそのものじゃないですか!夢と現の境界線を軽々と乗り越える、それが良いことか私には分からないw

もし人間が、自分の目の前の、網膜に映し出されるものだけしか視覚化できないとすれば、恐らく感性は非常に貧困で、そこに感情も湧かないと思うのだが、本能的に意味づけしたり、かつての記憶と結び付けたり、脳内で様々な勝手な働きが自分だけの映像を作り上げてしまう。

芸術とは正気と狂気の境目位にあるのが通常だが(笑)にいや監督の場合、造形作家のプロフェッショナルだから、再現を忠実に行う手段として、適切にアニメと模型と実写を駆使して、それを誰もが安心して観られる画として完成させる。だから「ドグラマグラ」より見やすいw

物語の感想自体の大半は省略します(笑)だって、これは夢の中で描かれた美しい世界の再現映像だと思うから。私が特に気に入ったカットをいくつか、例示として並べてみたいと思う。それはすなわち私が既にそれに近い夢を見た、あるいはこれから見てみたいと思う映像そのもの。

まずなんと言っても「名画座龍宮城」を巡る一連のカットは全てがパーフェクトに素晴らしい。なぜかって?それは私が重度の映画ファンだからですw映画への思い入れが画をより印象的なものにさせる。だって「名画座龍宮城」アニメの世界に実物のように精緻に建立してる!

「名画座龍宮城」は海の向こうにあって「ガスラvsギリゴン」本格的なポスターも貼られていて、私も幼い頃に夢中で観ていた「ゴジラvsモスラ」みたいな怪獣映画が上映中。主人公が、乙姫様と産まれたばかりの卵を抱えて、念願の劇場デート。映画内映画のスクリーンで怪獣が暴れ、光線を口から発射して、卵を直撃した!

その一連の場面に私は感じるのだ。小学生の頃に怪獣映画観たっけ。楽しかったなあ。今度は初恋のあの女の子と一緒にデートで行きたいなあ。そんな夢想が幻視の中に映画館を創造し、主人公の夢が全て叶う一歩手前で、夢ならば必然、それは全てキビシイ現実に帰してしまうw

青年が住んでいるボロアパートにいる隣人たちは、奇々怪々な人たちだけど、楽しいキャラに描かれる、それは主人公がボロアパートでうつらうつらと見る夢の中で「俺のお気に入りのアパートだから、みんな住人達も楽しいはず」全てはこうあって欲しい夢の産物なのだろう。

鈴木さんは母子家庭なのだろうか?母親はバーで給仕していて、愉快なオジサンが頭のてっぺんから可愛い女の子を登場させ「雨降りお月さん」歌わせるマジック。死んだはずのヤクザの山田さんは怖いお墓の取り立て屋さんを追い返してくれる、死んでも頼りになるヤクザw

にいや監督が声をアテている管理人の小川さんは、穏やかそうなイイ人だけど、正体はロボットだった(笑)主人公にとって誰も自分と同じ人間なんかいなくて、対象物として人間っぽく見えてただけで、彼には自分が住んでいる家の窓枠が人間の目のように見えて来てしまう。

だから(←だから、じゃねーよw)私は主人公にとって「乙姫様」自体が幻視の最たるものだと思うし、その幸せで理想的な幻視は子孫を作ってくれて、卵が孵化してくれさえすれば家族三人、仲良く暮らしていけるかと思った。でも大好きな怪獣映画のせいで、壊れてしまった。


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*ここまで、横浜SANさんのブログ記事です。
 以下は横浜SANさんとのDMでのやりとりです、


横浜SAN、ありがとうございます。あ、横浜SANさん、の方が良いのかな。
詳細な感想、とても嬉しいです。『乙姫二万年』は内容がああなもので、なかなか正面から感想をもらうことはないのです。しかし、横浜SANさんの『乙姫』のキャラやストーリーの記憶は、実はかなり作品の内容と違ってるんですけど。たぶんそれも横浜SANさんの幻視された風景なんだろうなと思います。特殊デザイナーのほうとうひろしさんも「観た人それぞれの『乙姫』を語ってもらうのが一番」と言ってくれてましたが。なるほど、横浜SANさんにはあのキャラや展開が「そう見えるのか〜」と驚きでした。
現在新作を制作中ですが、なんと『乙姫二万年』の外伝です。本編が長くなりすぎても良くないので外してたエピソードで、3分ほどの小品です。お楽しみに〜!あ、それと。横浜SANさんの肩書はどうしましょう。映画感想家でしょうか?
にいや



間違いや劇中で起こっていないことへのご考察、ありがとうございます。私がよく浜村淳さんを引き合いに出すのは、映画とはインスピレーションを刺激する娯楽であり、目の前に映ったものそのものではない。佐藤寿保監督の表現では「眼球の夢」そのものだと思います。私、表現が拙くてなかなか書きたいことを上手く書き出せないこともあるのですが、乙姫二万年に関しては、観るごとに感想はごろごろと大きく変わるはず。劇場で観られる日が楽しみです(*'▽')
横浜SAN


肩書なんて、これまで考えたこともなかったのですが、映画感想家というより、映画漫談家、映画講談家の方が近いかもしれません(←そんな肩書き、ある訳ないだろw)
横浜SAN


あ、そういえば切通さんの作品の感想を書いた時も「劇中で起きてないけど面白い」と褒めていただきました(←単なるホラ吹きだろw)
横浜SAN



いやいや、まさに『乙姫』はそういう見方をしてもらうのが一番良いのです。実際は深夜アニメ1クールか、長編映画三本分ほどのストーリーも、世界の設定もきちんとあります(脚本まで書いてるわけではないですが)。しかし、この作品は長大な物語のあちこちをジャンプしながら、物語の部分部分を説明無しで観客に目撃してもらうことをテーマにしているのです。それによって、物語の点と点が観客の脳内でつながり、十人十色の物語が勝手に膨らんでいく……という構造なのです。ですから、横浜SANさんの幻視こそ、最も正しい見方なのです。
あ、肩書は「映画漫談家」がカッコいいので、それで行かせていただきます。
にいや



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ここからは解説です。
『乙姫二万年』は言葉にしづらい作品なので、なかなか正面から感想を頂くことがありません。横浜SANさんの感想は、作品内に起こってない事が沢山書かれていますが、なるほど横浜SANさんの脳内にはこういうドラマが生まれていたのか!と、大変面白く読ませて頂きました。『乙姫二万年』実際はストーリーや設定があるのですが、時系列に沿って物語を進めず説明もせず、時間も場所もあちこちジャンプしながら物語のポイントポイントを「前情報なしに目撃してもらう」手法で作っています。それによって、観客の脳内で物語のポイントポイントが結ばれ、描かれていないドラマが生じるのです。「たった36分の作品なのに長編映画三本くらい観た気がする」という感想を頂くこともあるのですが、それがこの手法の効果です。若い頃に読んだ『キャッチ22』や『百年の孤独』などの影響ですね。
先にも書きましたが、特殊デザイナーのほうとうひろしさんが「沢山の人に「『乙姫二万年』私はこう観た」という、それぞれの心の中に生まれた物語を書いてもらって、それをまとめて分厚いパンフレットを作りたい」と言ってくれたことを思い出しました。
そういえば脚本家、監督の高橋洋さんが「『飢餓海峡』は凄い、最後に犯人が海に身を投げて、あっスクリューに巻き込まれたぞ!って皆が叫ぶところが素晴らしい」というので早速観てみたら……「高橋さん、そんなセリフなかったですよ」「えっ!そんなはずは……おれは確かに聞いたんだが」すかさず井川耕一郎さんが「高橋さんが、あそこは凄い!ってところは存在しない事が多いからな」と笑っていました。昔々の思い出です。


 

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