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 ヘビーコメント 1
 

作品の内容に触れる記述もあります、ご鑑賞後お読みになることをお勧めします。こちらには長文のコメント、批評を掲載します。
 
井川耕一郎



  井川耕一郎‏

年末、アニメーション作家・新谷尚之さんの新作『乙姫二万年』を常本琢招さんと新谷さんの家で見る。新谷さんは『色道四十八手 たからぶね』(製作:PGぴんくりんく、企画・原案:渡辺護、監督・脚本:井川耕一郎、主演:愛田奈々)の特撮監督(DVDのメイキングに新谷さんが映っています)。
 
新谷尚之『乙姫二万年』にはガツン!と頭を殴られたような感じだった。最初のうちは、古いアパートに住む売れない画家が巻き込まれる不可解な騒動を描くのだろうなと思っていたが、想定していた物語を超えて氾濫する何かがあったのだ。売れない画家の隣室のヤクザが実は幽霊だったり、

大きな牛乳瓶に入って未来からやってきた裸の女が画家と同棲したり、唐突に精霊牛型のUFOが飛来したり、かと思ったら、アパートの住人たちが雪山を登って死滅した龍を発掘したり……でも、この時点で新谷尚之『乙姫二万年』のまだ半分も行っていない。


新谷尚之『乙姫二万年』はたった35分なのに、一度見ただけでは分からないくらいとんでもない出来事が次々起こる。上映後、新谷さんはこの作品をどうやって作ったかを素材を見せながら説明したがっているみたいだったけれど、思わず言ってしまった。「新谷さん、もう一度見せてくれない?」

二度目は新谷尚之『乙姫二万年』を分節化しながら見ていた。ここまでは生者の世界に死者が戻って来るということだ、そして次は生者が死者を甦らせようとしているのだ、で、第三段階は未来人と交わり、子どもを作るわけだけれど、実を言うと、その子は……とあれこれ考えて分かったのは、

新谷尚之『乙姫二万年』には分節化からこぼれ落ちるものがあまりに多すぎるということだった。新谷さんは語り部として最高のひとである。でも、それだけなら小説を書いてもよかったはず。そうならなかったのは、語り部である以上に圧倒的に幻視するひとだったからだ。


『乙姫二万年』では、幻視者・新谷尚之の能力が語り部・新谷尚之の能力を上回る勢いで全開になっている。ふとヒエロニムス・ボス(昔はボッシュと呼んでいたと思うのですが)が今の時代にいたら、こんな作品を作ってしまうのではないか……と思ってしまったくらいだ。

新谷尚之『乙姫二万年』を上映するなら、沖島勲一万年、後...。』との二本立てがいいでしょう。映画の後半で一万年後の少年が言うセリフ「誰も見ていない……誰も見る事のない……でも、何故か見える風景です」を受け継ぎ、新谷さんなりに発展させているように見えた。

新谷尚之『乙姫二万年』には新谷さんが日常的に撮っていた実写もかなり含まれている。国分寺駅のホーム
のベンチにひっかかって揺れている風船--あれにはぞっとした。常本琢招さんは大和屋竺『裏切りの季節』のラストの傘みたいだと言っていたが、そのとおり。早く劇場公開を!



*映画監督、脚本家の井川耕一郎さんの連続Tweetを掲載させていただきました。初見でのTweetなので、そのうちきちんとした感想を書く……と、井川さんおっしゃってるので、お楽しみに。
井川さんは、ピンク映画やVシネで傑作脚本を多数執筆。映画美学校講師を務め、『寝耳に水』『西みがき』『渡辺護自伝的ドキュメンタリーシリーズ』などの監督作があります。高橋洋さん、塩田明彦さんと三人で大和屋竺脚本集「荒野のダッチワイフ 大和屋竺ダイナマイト傑作選」の編集も担当。井川さんは大和屋さんはじめ、ピンク映画関係のおつきあいが多く、亡くなられたピンクの巨匠、渡辺護さん原案の『色道四十八手 たからぶね』の脚本・監督も担当(にいやは特撮をお手伝いしました)。
色道四十八手 たからぶね』 DVD発売中、ネット配信も始まっています。
色道四十八手 たからぶね』 HPは ← こちら。

* 井川耕一郎さんが、2021年11月25日に逝去されました。生前は大変にお世話になりました。
    井川さんとは、僕が上京してからの30年近くのお付き合いでした。
    一緒に映画を作れてとても楽しかったです。ありがとうございました。

小林でび
アンカー 1

戯曲『マリコローズ二万年』(作:小林でび)
 


薄暗いワンルーム。眼鏡の男(小林でび)がPC画面でアニメを見ている。
背後にボンヤリした幽霊が立っていることに全く気付いていないようだ。


幽霊 「うらめしや〜」
でび 「うわーオバケーっ!」


飛び跳ねて驚くでび。幽霊の姿がハッキリしてくる…。
この部屋に憑りついている地縛霊・・・おばけのマリコローズだ。


マリコ 「オバケーって!昭和の驚き方ね.(笑)なに見てるの?またイデオン?」
でび  「違う違う。にいやさんの新作アニメ『乙姫二万年』が完成したから、その宣伝用のコメントをね、書いてたんだけど…」
マリコ 「どれどれ?(書きかけのノートを奪って読む)
まるでオモチャ箱をひっくり返したような、カラフルでミラクルな・・・」
でび  「あ〜っ!まだ書き中だから!(ノートを奪い返す)」
マリコ 「正気?wなんなのその既視感バリバリの手垢のついた表現の万華鏡は!?AIが書いた文章かと思っちゃった」
でび  「いやなんかすごい映画だっていう迫力だけは伝わってくるんだけど、具体的に評論しようとすると、どこから手を付けていいものやらっていうか…」
マリコ 「評論???ま〜偉そうに!すなおに見たまんまの感想を書けばいいだけでしょ?どう見えたの?でびにはこの『乙姫二万年』は?」
でび  「どうって・・・流石だなあって」
マリコ 「だから何がどう流石なのよ?」
でび  「なにって・・・にいや監督の想像力の豊かさっていうか。いろんなイメージが次から次から溢れ出るみたいで、まるで…」
マリコ 「オモチャ箱をひっくり返したみたいに?オホホホホホ…ってあきれた! あなた・・・にいやさんが想像力でこの映画撮ったと思ってるの?」
でび  「え?(間)違うの?」
マリコ 「真の芸術家はね、想像や空想で描かないの。見たままの真実を描くのよ」


マリコローズが腕を振り上げるとそこに火の点いた煙草が出現。
マリコローズ、煙草を深く吸って煙を吐き出す。
煙の中に1枚の絵画が浮き上がる・・・女性の肖像画だ。


マリコ 「ピカソの『泣く女』って知ってる?」
でび  「もちろん。泣き叫ぶ女の肖像画の連作だよね、キュビズムの時代の」
マリコ 「あの女、当時ピカソが同棲してた愛人なのよ」
でび  「え?そうなの?」
マリコ 「それと『ゲルニカ』で子の屍を抱えて泣き叫んでる母親もピカソの愛人ね」


マリコローズが吐いたタバコの煙が『ゲルニカ』になる。

マリコ 「ピカソの作品に出てくる人間はほとんど彼の知人で、特に女性はピカソの奥さんか愛人ばっかりなの。・・・これがどういう事か分かる?」
でび  「???」
マリコ 「ピカソは見たものしか描かなかったのよ」


マリコローズが煙を吐くたびにピカソのいろいろな絵が出てくる。
花、鳥、女たち、道化師、闘牛・・・彼の日常にあったものばかりだ。


マリコ 「牧神は彼の子供達。顔のある花も、その顔はピカソの愛人の女性だし。

とにかく彼は生涯を通じて見たものしか描かなかったの。

その代わりね、ものすごい執念をもって見たのよ。目の前にあるものを」
でび  「執念・・・」
マリコ 「ちょっと考えてもみなさいよ。
『泣く女』でピカソの愛人ドラ・マールはピカソを恨んで泣いてるのよ。
自分を罵りながら目の前で泣き叫ぶ愛人を、あなたなら描きたくなる?」


マリコローズの吐いた煙が女になって、泣き叫びながらでびを睨みつける。

でび  「ならないね(笑)」
マリコ 「目を背けたくなるでしょ?普通は。つらいからw。
でもピカソは興味津々で見たのよ。あのまんまるの黒目がちの瞳で。
ピカソはその詳細を観察して絵に描いたの、何枚も何枚も。最低男でしょ?(笑)」

でび  「(笑)あー・・・でもにいやさんの新作アニメは・・・どっちかって言うとホラ、河童とか、墓石の大家さんとか、特撮オタクの宇宙人とか、乙姫とか…」
マリコ 「『ゲルニカ』にもミノタウロスがいるじゃない」
でび  「え?あれは牡牛…」
マリコ 「あれはピカソ自身よ。
ピカソは生涯を通じて自分自身の姿をミノタウロスとして描き続けてるの。
ほら『ゲルニカ』のミノタウロスは子の屍を抱いて泣き叫ぶ女を、ただじーっと見ているでしょ?あの黒目がちな瞳で(笑)。
あれは「ただ見ている」という暴力を描いているのよ。
世界はナチスドイツによるゲルニカへの無差別爆撃をただ見ていたからね。
だから『乙姫二万年』の河童も墓石の大家さんも特撮オタクの宇宙人も乙姫も、現在の日本で進行中のなんらかの真実をそのまんま表現しているのかもしれないわよ?おほほほほほ」

でび  「現在の日本で進行中のなんらかの真実???」
マリコ 「オバケ〜
っ!」
でび  「うわっ!なんなの急に!」
マリコ 「幽霊国勢調査によると、地縛霊の約95%が自分が死んでいることに気づいていないんですって!」
でび  「?」
マリコ 「あなたは果たしてまだ生きているのかしら?」
でび  「はあ?」


マリコローズの吐く煙草の煙が、大津波となって街を飲み込んでゆく。

マリコ 「水没する街・・・どこからともなく現れて払っても払っても建物に這い上がってくる河童たち・・・そしてその河童を普通に食べてしまう私達・・・」
でび  「???」
マリコ 「例えばの話だけど・・・」


かみなりの光と音!天気が悪くなって急に部屋が暗くなってくる。

マリコ 「もし日本で起きた大きな事故が連鎖して連鎖して連鎖して、日本列島の真ん中あたりがまるまる海に沈んでしまっていたとしたら?
そしてそこに住んでいた1億人近い人々が、みーんな自分たちが死んでいることにまだ気づいていないとしたら?」

でび  「気づくよ!」
マリコ 「人間は見たくないことから目を背けるんでしょ?」
でび  「そうだけど!」
マリコ 「だっておかしいと思わない?
時間が止まってるとしか思えないこの2010年代の停滞ぶり。
作られるものは過去の何かの焼き直しばかりで、SNSとかAIとかビッグデータとか、人間の意識だけが肥大して、肉体はいったいどこに行ってしまったのか?」

でび  「でも」
マリコ 「未来の話をすることはタブーになり、誰も未来について考えなくなる。でもそれは誰も見たこともない未来が進行中だからなのかもしれないわね」
でび  「誰も見たこともない未来って?」
マリコ 「・・・乙姫?」
でび  「乙姫!」
マリコ 「もしくは乙姫が象徴する何か?」
でび  「それは何?」
マリコ 「あなたは何を感じたの?乙姫を見て」
でび  「・・・恐怖。それと・・・」


遠くから轟音が聞こえてくる。

でび  「よろこび・・・生まれてくるものに対する」
マリコ 「窓を開けてみなさいな」
でび  「え?」
マリコ 「窓を開けてみて、いまなら見えるかもしれないから」
でび  「なにが?」
マリコ 「真実?」


でびがおそるおそる窓に近づいて、窓を開ける。
するとなんと窓から見えていた景色はガラスに描かれた書き割りだった!
開け放たれた窓の外には一面に海が広がっている。
呆然と海を見つめるでび。
潮風とウミネコの声が、そして遠くでボートのエンジン音と銃声も聞こえる。


マリコ 「オバケの世界へようこそ」

するとものすごい轟音と共に海が大きく盛り上がってゆき、30メートルはあろうかという巨大な顔が浮きあがってくる。・・・乙姫だ。
その目がじっとでびを見つめている。じいーっと、見つめている。
でびもその瞳から目を反らすことがことができない。なぜなら、その瞳が語りかけるものが、わかりそうで、まったくわからないからだ。


その瞳は人間の瞳でありながら、もはや我々の知っている人間の瞳ではない。
そう、いまは西暦22019年。
ようやく新しい我々が目覚めたのだ。
 

 

<完>

*監督で役者でミュージシャンの小林でびさんにコメントをお願いしました。「短くても長くても、なんならシナリオ形式でも良いですよ」とメールしたら、なんと!本当に戯曲が届いてしまいました。しかも『乙姫二万年』の本質に迫る、ハードな批評にもなっています。さすがでびさん。

でびさんとは、10年前に夕張映画祭で知り合いました。以来、何度も一緒に飲んだり、でびさんの演技ワークショップに参加させてもらったり、作品のお手伝いしたり、仲良くして頂いています。

この戯曲に出てくるマリコローズさんは、でびさん監督、主演作『おばけのマリコローズの主人公。歌って踊れるゴージャスなおばけです。僕はゆうばりでマリコローズさんに惚れ込んで、専任スチルカメラマンをやらせてもらったのでした。

こちらはでびさんのブログ「でびノート☆彡」。でびさんの演技論、映画に関する考察など様々な記事であふれています。でびさんの監督作キリミと魚人間』では、僕が特撮をやってます。

↓ こちらはでびさんの作品DVD、アマゾンで絶賛発売中です!

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「Dejima to Nirvana」 ほうとうひろし

 東京から約70km離れた茨城県の牛久市に、「日本に在留資格のない外国人を帰国まで収容する」という名目で法務省によって設営された難民収容施設「東日本入国管理センター」がある。

 2018年4月13日、同センター内において自殺者が出た。仮放免を申請していたインド人難民のディーパク・クマルさんが、法務省から不許可を下されたのちに自らの命を絶ったのだ。彼は同センターに長期拘留されていた。享年32歳。

 クマルさんの自殺がきっかけとなって、日本の入国管理施設での収容者への人権侵害の問題が、直接の当事者ではない日本の市民間にも表面化し始める。クマルさんのように不当に苦しめられている難民は、僕たち一般庶民が知らされていなかっただけで、じっさいには数多く国内に存在したのだ。それらの情報がツイッターで拡散された直後から「#FREEUSHIKU」というハッシュタグと、収容者の待遇改善のための署名活動が起こった。ほどなくして、東京は港区の湾岸沿いにある東京入国管理局の前で、同局の職員や関係者に直接訴える形での抗議行動が行われることがツイッター上で告知された。

 抗議が行われる5月2日の当日。僕は自宅近所にあるセブンイレブンのマルチコピー機で、〈#FREEUSHIKU に共鳴する人々によってアップロードされ、無料でダウンロード出力できる抗議のメッセージ〉を出力し、それを段ボール箱をひらいて作った台紙に貼り付けた急ごしらえのプラカードを小脇に携えて電車を乗り継ぎ、JR山手線の品川駅前から出ている都バスに乗り込み、湾岸から切り離された埋め立ての人工島である品川埠頭のど真ん中に建てられた東京入管の前で降りた。

 「この立地、まるで鎖国時代の長崎「出島」だなあ……」

 感慨に耽る間も無く、早速プラカードを掲げながら、もう片方の手でiPhoneを構え、続々とバスを降りて抗議に集まる人々を動画撮影し始めた。すると僕のiPhoneのディスプレイに写った数十名の抗議者の中に見知った中年男性の顔を認めた。映像作家のにいやなおゆきさんだ。

 にいやさんは『入国管理局は人権守れ #FREEUSHIKU』と太ゴチック文字で書かれたプラカードを左手で掲げながら、右手ではカメラを構えて抗議現場の状況を撮影中であった。僕とまったく同じ行動である(その時のにいやさんを含む抗議者たちのスピーチや抗議コールの状況を撮影した僕の動画は『#FREEUSHIKU 0502東京入国管理局前スタンディング全記録◎2018年5月2日』というタイトルをつけてyoutubeで公開中だ)。

 東京入国管理局への抗議は午後5時から6時にかけておこなわれた。抗議行動も終盤に差し掛かった頃、僕たちのコールに気がついた管理局内の外国人収容者たちが、高層階の収容フロアから悲痛な叫び声を上げ始めた。その叫びに気が付いた僕たちはコールを一旦中断し、時同じくして降り始めた小雨に打たれながらも、しばし彼らの言葉に耳を傾けた。きっと僕らの抗議行動に対してであろうが、おぼつかない日本語で「ありがとう!」と聴こえた。

 僕たちのいる足元から、ほんの数十m先で続けられている人権侵害の片鱗に不意に触れ、皆、慟哭しているようだった。

 開始から1時間が経過し、抗議行動は終了。プラカードとカメラを手にしたにいやさんが僕に声を掛けてきた。僕と雑談をしつつも、にいやさんはテキパキとプラカードを分解し始める。目を丸くする僕に対して、

「あ、これですか? この持ち手はプラスチックの布団叩き棒でね、メッセージ板はクリアホルダーにコピーを1枚挟み入れたもの。これだと中のコピーは、デモの内容に合わせて差し替えられるでしょ。布団叩き棒のこの独特な形状によって実にうまくクリアホルダーを固定支持できるんです。で、ここから布団叩き棒を引き抜けば、ホラ、全部カバンにしまえちゃうんです」

 抗議が済んで無用な長物となった段ボール製のプラカードを脇に持ち抱えている僕は、にいやさんのまるでデパートの実演販売員のような軽やかな口上と身軽な姿を羨ましく、また感心して眺めていた。それを察したのか、にいやさんは

「クリアホルダーも布団叩き棒も100円ショップで買えますよ」

と言って笑った。

 僕たちは東京入国管理局前から都バスに乗り込み、それぞれが帰路につくための共通の経由地点である品川駅へと向かった。

 にいやさんと僕は、元々は国会議事堂前や首相官邸前、新宿アルタ前や渋谷ハチ公前などで、数年前から市民によって行われ続けている抗議デモ……政府与党が押し進める様々な政策に対する抗議活動……の現場で初めて顔を合わせた仲だ。お互い表現者の端くれとして、民主主義の根幹を覆すような政策を強引に推し進める安倍政権への異議の申し立てをせずにはおられない人間だ。そして、参加中のデモの状況報告を現場に来られない多くの人々に報告するために逐一ツイッターに上げるような同士でもあったので、じっさいに顔を合わせる前から「相互フォロー」の間柄だった。

 だから、にいやさんが『人喰山』という特異なアニメ映画を作った〈映像作家〉であり、〈武蔵野美術大学映像学科非常勤講師〉でもあることは、直接の面識を持つ前から彼のツイッターのプロフィール欄やその他のweb情報で知っていた。ただし、その監督作品を観たことは一度もなかった。唯一、にいやさんがB29爆撃機をミニチュアで再現する特撮を担当した『ソドムの市』という高橋洋監督の映画を上映会で観たぐらいである(ちなみに、その上映イベントのフライヤーデザインを僕は請け負っていた)。その特撮シーンはとても薄暗く、夢のようにおぼろげな味わいだったと記憶している。

 にいやさんも僕のことは同じような手段でご存知のようだ。しかし、この日の帰り道では、そのようなやりとりからでは窺い知れないような、もう少しプライベートな情報も交換した。

 にいやさんは揺れるバスの車内で、「これ、どうぞ」と言って、1枚の白いDVDディスクを僕に手渡してくれた。

「『人喰山』のDVDです。どうぞ」

 思いも掛けないプレゼントをいただき恐縮した。僕が、アニメや漫画、映画や特撮といったジャンルに関して、普段から独自のこだわりを持ってツイートをしていたから、「どれ、ひとつこの男にも驚きを分けてあげようか」と思ってくださったのだろうが、素直に嬉しかった。

 ほどなくしてバスは品川駅に到着。二人はラッシュアワーに突入した山手線に乗り込んだ。新宿・渋谷方向に向かう電車の中で、にいやさんは先ほどデモの現場を撮影していたデジカメを肩掛けカバンから取り出し、

「これ観てください。今、製作中の新作映画の素材です」

と言ってカメラの液晶画面を僕に向けてくれた。映し出されたものは、炎のどアップとか、緑色のワームホールのような渦に人間と思しきものが吸い込まれているような、単にバスクリンのような液体の渦に鉄道模型に使うような極小サイズの人形がまばらに散らされているような、そんな映像だ。

「次回作はアニメじゃなくて特撮なんですか? 『ガメラ3・レギオン襲来』で特技監督の樋口真嗣さんが、ガメラの吐く炎で渋谷センター街が爆発炎上して、それに巻き込まれたコギャルやチーマーたちが吹っ飛ばされる様を表現するために、アルミホイルをねじってこしらえた人形を宙に放り投げて撮影した素材を爆発の炎の中に合成していましたけど、そんな感じの映像にするんですか?」

と僕。返すにいやさんは

「いや、結局これは使わないんですけどね」

あら、カックン。

 その後も、揺れる満員の電車内で断片的ににいやさんの新作にかける構想をうかがいながら、空とか雲とか炎などの映像素材の断片をパラパラとたくさんを見せられたが、見れば見るほど判らなくなった。そんな中、移動中の電車の車窓から捉えた〈空を飛ぶ白鷺〉の付けパン映像や、〈クレーターがくっきりと刻まれた月〉の望遠写真を見た僕は、

「あ〜、G・レジオ監督の『コヤニスカッツィー』のような、特殊な撮影をした実景の積み重ねによる映像詩でも企んでいるんですか?」

「いや、そういうんじゃなくて、絵を描いたり、模型を作ったりして、それを動かしたりするんです。特撮であり、アニメであり、そのどちらでもない……」

「ならば、新東宝や国際放映、日本特撮株式会社、円谷プロ、ピープロを渡り歩いた土屋啓之助監督による『妖怪伝 猫目小僧』的な〈劇メーション〉形式ですか? そういえば何年か前、そういうスタイルの自主作品が関西で公開されていましたよね?」

「あ〜、宇治茶監督の『燃える仏像人間』ね。あれは先を越されて悔しかった。でも、あれとも違うんですよ!」

とにいやさん。……聞けば聞くほど、どうにも完成形が想像がつかない。

 頭の中で想像のシミュレーションが勝手に膨張したり、しぼんだりして、なんだかほわ〜んとしてきたが、渋谷駅あたりでにいやさんは下車し、僕らは別れた。


 ◉ ◉ ◉ ◉


 家に着いた僕は、さっそく先ほど撮影した入国管理局前で撮影した動画をyoutubeにアップしつつ、その公開情報を、短い動画を貼り付けたツイートで告知する。そういった単純で面倒な一連の作業が終わり、ようやく遅い夕食兼晩酌タイムに移行した。冷えた発泡酒を口に運びつつ、先ほどにいやさんから頂戴した白いDVDディスクを、iMacに繋いであるディスクドライブのスロットルに差し込む。映画館のように部屋の明かりを消して鑑賞開始。

『人喰山』は白黒映画だった。墨で書かれた動かない絵が画面いっぱいに写し出される。初めて観たにいやさんの絵は滅法上手いし、僕好み……いや、初見ではないな。にいやさんのツイッターのアイコンになっている不気味な絵が、これと同んなじだ。この墨絵による映画は、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』にみられるような〈墨絵アニメ〉ではなくて、〈墨絵による紙芝居映画〉だった。しかし、カメラワークと編集の積み重ねで、それが徐々に普通の上質でクラシックな実写映画のようにも感じられてくるのが面白い。この感じは一体なんだろう。まだ一般的にはまったく無名だったころの富野由悠季監督が演出した、セルを使わない紙に描かれた劇画調の絵を手持ちカメラで揺さぶったりしたような映像のモンタージュによる朝の帯番組『シートン動物記』のことをチラリと思い出したが、いや、これはむしろ〈挿絵のついたラジオドラマ〉といった風情だな。

そういえば、ニッポン放送の『オリベッティオフライン劇場』という番組枠で毎夜放送されていた江戸川乱歩の『化人幻戯』とか、筒井康隆の『乗越駅の刑罰』といったラジオドラマに大いに刺激された小6の頃、友人の蓮池くんとオープンリールのテープレコーダーで音のドラマを作っては遊んだっけ。ミキサーなんて持ち合わせてないから、蓮池くんが母親から英語学習用教材の名目で買ってもらった当時まだ珍しいカセットテープレコーダーに効果音や音楽を入れておき、それを同時再生しながら僕がストーリーを読み上げ、蓮池くんは芝居交じりに登場人物のセリフを読んでくれた。作ったものは中岡俊哉の子供向け怪談本を台本がわりにした怪奇譚ばかりだったなあ……と、僕の脳内はどんどん過去に退行していった。安酒の酔いも回ってきたのだろう。

iMacのディスプレーに映され続けるにいやさんの推理モノ風な映画は、当然のごとくサスペンスフルでありながらも、どんどんと異様さが増して混沌としていき、さらには何やら密造酒のような臭気を画面から発散してくるのだった。何か不思議な力で自分が抗えなくなっていく感覚だ……バタン(寝落ち)。


◉ ◉ ◉ ◉


 初めてにいや作品に触れた晩から5ヶ月が経過した10月10日の夕方、僕はJR三鷹駅に降り立っていた。あの日、見せていただいた素材による新作映画『乙姫二万年』が完成したので自宅アパートにて試写会を催す、とにいやさんからのお招きがあったのだ。お供は友人で昭和レトロ玩具コレクター兼ライターのおおこしたかのぶさんと、T・ギリアムやJ・シュヴァンクマイエル作品などが大好きな人形作家の与偶さん。ここから小田急バスに乗ってにいやさんの指定するバス停に向かった。

 バス停で降りた僕ら一行を迎えにきたにいやさんと最寄りのスーパーで飲料などを買ったあと、試写会場であるにいやさんの住まわれる年代物のアパートに到着。なぜかこの時、僕の頭に去来したのは『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』で初登場した導師・ヨーダの住むダゴバハウスを訪れたルークの内心であった。わちゃわちゃとした雑談タイムのあと、部屋の明かりが落とされて、いよいよ待望の『乙姫二万年』初号試写が始まった。

 スクリーンに見立てたアパートの白壁に四角い暗闇が映し出される。その真っ暗な画面に黄金色に煌めく何かが浮かび上がった。ゆっくりと回転しながらズームアウトしていくとそれは2つの人面をかたどった古風なレリーフであることが判り、それはさらに煌めきながらちょうどいいフレーミングに収まったところで動きが止まった。レリーフの下には「2.5D animation」という英字が浮かび上がる。

 この感じは、まるでヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞した作品の巻頭にのみに付けられる、獅子を象った黄金のトロフィーの大写しが、観客に対して、いや、全人類に対して、「控えおろう!」と言わんがばかりに誇示される例のアレのようにクラシカルで荘厳だ。あるいは、旧ソ連時代のモスフィルムのロゴには青銅色に輝く男女の労働者の像が使われていたし、かのS・バスが演出したS・キューブリックの出世作『スパルタカス』のタイトルバックは、古代ローマの彫像写真を素材としたスチル・アニメだった……かように、このオープニングロゴはそれだけで、僕の古い映画記憶や、古い映画に対する憧憬、それにまつわるフェティシズムを強く強く刺激した。しかし、にいやさんの「2.5D animation」ロゴのカメラワークはコンピュータ制御によるヒヤッとするほどに滑らかなものであって、そこに大昔の〈控えおろう!映像〉との絶対的な違いがあり、「ああ、これが21世紀の映像なんだなあ」と実感させる。

 本編は、主要人物キャラはにいやさんの手描きの水彩絵具による漫画絵が、その他の背景には、建造物などはボール紙などでこしらえた模型が、空などの空間は実写が、細々とした大道具小道具的なものは殆ど100円ショップで調達したという市販のミニチュア小物が……例えば主要人物以外のエキストラには5ヶ月前に見せてもらった渦に巻き込まれていた鉄道模型用の極小サイズの人形が……それぞれ使われ、そのバラバラな要素がかなり強引にコラージュされていた。しかし、その強引な絵作りにもすぐ慣れて来るのだから、これはいかにも不思議だ。先に挙げた和光プロの『妖怪伝 猫目小僧』や、ほぼ同時期にテレビで放送されていた円谷プロの『恐竜探険隊ボーンフリー』を初めて観た時には、セル画とミニチュア模型といった異なる要素の共存に、子供心(放送当時、中学生だったが)にもかなりの抵抗感を覚えたのだが、この素早い〈慣れ〉の発生は、にいやさんのストーリーテリングや構図の取り方、絶えず微かに動き続けている滑らかなカメラの動きなどの要素が絡み合った映像的魔術の賜物なのだろう。

 思えば、世界映画史における特撮映画、幻想映画、SF映画の開祖、J・メリエスの作品群からして、人物や小道具以外の背景の殆どは板に描かれた書き割りだった。3次元の人物と2次元の背景という、現実では混ざらない別々のものが、巧みなカメラフレーミングのトリックによって同一空間のものとして合成されていた。

「いや、映画誕生以前からの演劇の舞台空間だって同じようなものだっただろう」という人もいるだろう。しかし、それまでは俳優と書き割り背景とのギャップを、観客の〈舞台演劇という娯楽を要求する心〉で無意識的に脳内補正させることによって納得させていた部分を、メリエスはレンズを通してモノクロの画質に変換し、フィルムに定着させ、銀幕に拡大映写することによって2次元と3次元とを互いに引き寄せ、その違和感の払拭=合成に初めて成功したのだった。

 それから120年後の『乙姫二万年』でにいやさんが試みているのはその真逆で、コンピューターの画像処理技術を仲立ちにした2次元の人物と3次元の背景の混在化というか混濁……にいやさんが名付けるところの〈2.5次元〉空間の創造であった。そしてそれはじっさいに現出し、さらにコース料理の箸休め的にところどころに、にいやさんが偶然撮影した奇妙な実写を挟みこませることによって、フレッシュな違和感を最後までキープしつつ、30数分間に渡って展開されていた。稀代の変態的表現者による、まことに自由気ままな映像と自由気ままなお伽話であった。


 ◉ ◉ ◉ ◉


 僕もにいやさんも自由の侵害に対しては強く抗うタイプの人間だと思う。なにしろそのような考え方に基づく発言と行動の中で知り合った間柄だ。同じ現場で「安倍はやめろ!」「戦争法案絶対反対!」「高プロやめろ!」「誰も殺すな!」などと叫び続け、先立っての入国管理局内から響いてきた難民たちの悲痛な叫び声を聴いては共に身震いした。

 しかし、にいやさんの作品世界では、登場人物はシュールで理不尽な状況に最初は抗うものの、終いには呑み込まれていく。

 そして、このたびの新作『乙姫二万年』では、もはや主人公は話の最初から最後までほとんど抗わず、ただただシュールな展開に身を委ねていく。敗北でも同調でもなく、むしろ流されることに幸せを見出しているようにさえ感じる。

 そうか、たとえ傍目からは奇異におもえる状況下に置かれていても、当事者が抗わなくてもいいと思える状態は、その当事者にとって幸福な状態ともいえるんだ。最初から最後まで天地がひっくり返り続けるようなシュールな世界が舞台の『乙姫二万年』だが、あれはにいやさんが辿り着いた映画的な涅槃の境地、「シネマティック・ニルヴァーナ」なんだろう。

 あの絵と写真と音響の極めて独特な比率配合=レシピで生み出された〈ヤミ鍋〉と〈ドブロク〉が醸し出す芳香がもたらしてくれる多幸感に、しばし僕も身を任せた。このままの意識で死ねたのならば、なんて幸せなんだろうか、とまたもや寝落ちする感覚……。

 そして今、冷たい水で顔を洗って、現実の日本の牛久で、インドからやって来て自殺してしまったディーパク・クマルさんのことや、他の理不尽な原因で命を奪われた人々、今なお苦しんでいる様々な人々について、そして自分の生き方について、改めて考えてしまうのだ。◉
*ほうとうさんへのお礼解説文を書こうと思うんですが、長くなりそうなのでリンクを最初に置いておきます。ほうとうさんのご著書、関わられたお仕事の数々です。
 
『デラべっぴんの本:スーパー・オナマイド』ほうとうひろし・編著
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『オナマイド リターンズ』ほうとうひろし・編著
https://amzn.to/2SlRAai

『ちびっこ広告図案帳―ad for KIDS:1965‐1969』おおこしたかのぶ・編
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さて、ここからお礼解説です。ほうとうさんに負けないように、長文です。普通書かないようなネタバレも含んでいます。
『乙姫二万年』を製作している4年間、僕は作品と学校と国会前の三角形で生活していました。授業が無い期間、収入が途絶える非常勤講師は貧乏ですが、そのかわり時間があります。朝の6時半に目を覚まし、真夜中過ぎまでぶっ続けで作業したり、運動不足で腰が痛くなったらデモや国会前に行って歩く。学校の無い間はそんな生活でした。個人的な知り合いの方々はお分かりと思いますが、そもそも僕は社会派な人間ではありません。バカバカしい事が好きで、記憶力が無い。政治家の名前や政策なんて読んだり聞いたりしてもすぐに抜けていく。でも、2011年の3月11日からはそんな事言ってられません。政治もテレビも新聞も、テレビに出てるような人たちの発言もどんどん異様になって行きました。「戦争はよく無い」「差別はよく無い」そんな普通だった事が物凄い勢いで捻じ曲げられていく様を、この数年目にしてきました。twitterもやっていますが、そもそも「今日は何を食べた」「この映画が面白かった」「自分はこう思う」等々自分の事を書きたいという欲求は皆無な人間なので、自然と社会派のリツイート中心になります。誰かが言ってましたけど、twitterはラジオのようなものだと思います。だから(特に若い方々に向けて)テレビや新聞が報じない事柄をとにかく流しっぱなしにしようと決めました。お嫌な方はリムーブご遠慮なく、ブロックご自由に、です。難しいことは覚えられない人間ですが、どんどん食べ物が小さくなって行く事は普通にスーパー行って買い物してれば分かる事です。景気が良くなってるなんて、貧乏な庶民の誰が感じてるんでしょう。30年分の消費税返して欲しいです。
リツイートする記事の選択は簡単、長期間ウォッチして、汚い言葉を使わず、きちんと筋道立てて話をする方、反対の意見を持つ人とのやりとりを読んで、「この人は信用できる」と思える方々のTweetを支持、という方針です。嘘を言ったり、汚い言葉を使ったり、議論をごまかして逃げたり、過去のTweetをこっそり消去したり、質問に答えなかったりする方は信用しません。普通の人間関係と一緒です。
という事で、「にいやさん一日中twitterやってるなあ」と呆れてた方も多いかと思いますが、ここからが本題。twitterを頻繁にやってるって事はパソコンの前にいるって事です。パソコンの前にいるって事は、延々作業をしてるって事です。twitterの回数が多ければ多いほど、合成のレンダリング待ちで複雑なカットをやってるって事です。暇じゃ無いんです、忙しければ忙しいほどtwitterの回数が増えるんです!
という、社会派Tweet垂れ流しの毎日、ほうとうさんの特撮やアニメ、マンガや出版物に関するTweetはオアシスでした。さすが企画編集をやっておられるだけあって、僕とは大違いで整理整頓が得意。様々な情報を収集して、わかりやすくまとめて提示する能力は見事なものです。そのうち興味の重なった事に関するやりとりが始まり、いつの間にかデモや抗議で顔を合わせるようになってました。ご縁って不思議なものです。
ほうとうさんとの関わりは、もうご自身が語られていますし、僕からつけ加える事もありません。という事で、ほうとうさんの書かれてた「主人公は話の最初から最後までほとんど抗わず、ただただシュールな展開に身を委ねていく。敗北でも同調でもなく、むしろ流されることに幸せを見出しているようにさえ感じる」という一文に関してだけ、僕の思ってた事を書かせていただきます。本来『乙姫二万年』のテーマや内容に関しては語らない、というのが方針なんですが、重要な事はこういう場でお話しさせていただきます。
実は、主人公の生活をどう描こうかとかなり悩みました。なにかバイトをさせようか、絵描き仲間とウダウダやってる生活はどうだろう……。でも、短い作品でそんな事描く暇はないし、それ以上に、不思議な事に、彼の生活がイメージできなかったのです。カレンダーに「飲み会」とか「ゴミの日」とかの書き込みをする時も、どこか違和感を感じてました。「この主人公に、普通の日常生活ってあるんだろうか?」 彼がバイトをしている場面を、いくら想像しても嘘くさい。とても不思議な感覚でした。象徴的なのは、その他大勢のモブキャラです。最初はこれも手書きの予定でした。でも、あんなに大勢を描いてたら、いつ完成するかもわかりません。それに、個性を持った人々(生活を感じさせる人々)を描いたら、作品世界に穴が開く感じがして。結局、鉄道模型のNゲージの人形を買ってきて合成する手法におちつきました(Nゲージの人形を使って作品を作っている作家の方もおられますが、あちらが使っているのはドイツ製の高級品。僕のは日本製……の不良放出品。塗りがいい加減ではみ出てたり、作りが荒くてぼんやりした雰囲気が僕の作風に合いました)。また、カッパの死体が発見されるシーンで、普通の河原を描いているうちに、巨大スズメやら中国の映画祭会場で撮影したイージーライダーなバイクやらを縮尺関係なく合成し始め、気がつくと非現実的で異様な風景になってたり……。なにかおかしい、この世界は普通に人が生活している空間ではなさそうだ、ではなんだろう、ここはどこだろう、この世界の正体はなんなのか、自問自答しながらの製作が続きました。作っていて感じたのは、なにか閉鎖空間に主人公たちは閉じ込められているのではないか。描かれているアパート周囲以外に、世界は無いのではないか。そんな感じ。
有名な幻想小説に、シュペルヴィエル『沖の小娘』という作品があります。娘を亡くした事を嘆き悲しんだ船乗りの心が、海の上に娘が住む小さな街を作り出してしまう。娘はそこで生活しながら、外に出ることもできず(いわば、父親の悲しみの中に)閉じ込められている。というロマンチックな小品。僕は『沖の小娘』を思い出しながら、しかし、いつかここから脱出できないか、と念じながら製作を続けていたのです。
ここはネタバレ天国ですから書かせていただきますが。主人公が二万年後にタイムスリップし、荒廃した未来世界を目にした時、やっとこさ頭の上に覆い被さっていた何かが消えた感じがしました。「やっと時間が動き始めた」とホッとした事を覚えています。登場人物たちも、それぞれが抱えていた(とらわれていた)なにかから解放されたような、明るい表情で再登場します(そもそも彼らは未来世界で登場するはずではなかったのです)。
ほうとうさんに書いていただいた「当事者が抗わなくてもいいと思える状態は、その当事者にとって幸福な状態ともいえるんだ。最初から最後まで天地がひっくり返り続けるようなシュールな世界が舞台の『乙姫二万年』だが、あれはにいやさんが辿り着いた映画的な涅槃の境地、「シネマティック・ニルヴァーナ」なんだろう。」という文章は決して間違いではないですし、確かに四年間アパートにこもって『乙姫』を作っていた幸せな時間、隔離された自分だけの世界を生きていたという意味では、作品自体も、僕の生活自体も「シネマティック・ニルヴァーナ」だったと言えるかもしれません。だけど、世界が破滅して、二万年後に目覚めた浦島太郎は、そこからやっと自分の生を生き始めたのかもしれない。青空に飛んでいく人々(あの解釈はご自由にお任せします)も、彼らを閉じ込めていたものから解き放たれた、と僕は感じているのです。『乙姫二万年』と国会前を行き来して、四年間かかって僕はなんとか現世に帰ってきた、実はそんな気がしてるのです。
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